忍びの日記

絵の思考法から世事評論まで、忍者が斬る!

「〇〇みたい」にではなく「〇〇を超える」という姿勢

私は「〇〇みたいに」などと、一度も考えたことがありません。

〇〇は人でも良いし、対象とする絵でも構いません。

「〇〇みたいに」とはあくまでも、上達するための手段だからです。

そこに肉薄すればするほど、技術的な吸収ができているという話になります。

しかし、それではドリル課題をやっているのと同じで、まだ不十分なのです。

やはり〇〇は、神棚に奉るような存在ではなく、しっかりと自らの手で超えていかないといけないわけです。

言葉は悪いですが、あなた自身の手で「幻想殺し」「神殺し」をするのです(某ラノベ原作アニメと別の某ロボットアニメの話ではないですよ)。

そうしたら、どの部分は超えられるかを計算しないといけません。

その時に、〇〇を真剣に観察をしっかりするようになるのです。

どういう傾向があるのか、どういうクセがあるのかを学びとります。

その上で、「でも、ここは超えられるな」という部分を見つけたら、そこも追います。

そうやって、〇〇を習得していくのです。

そのためには、〇〇に含まれている要素をしっかりと分析できないといけないです。

そのための基礎トレーニングは、常日頃からしておきましょう。

その瞬間瞬間の絵の完成度も大切なものですが、そこだけに注目していたら、いつまで経っても実力的な向上はできません。

ましてや、「自分の絵を好き」なんて当たり前の話です。

そうじゃなきゃ、絵なんか描かないですし、そこで止まっていたらそこで終わりです。

あと、「自分にプレッシャーをかけよう」「自分との闘い」などという人がよくいますが(そりゃそうなんですけど)、そういう曖昧で抽象的な捉え方ではいつまで経っても、目標を達成できないです。

自分にプレッシャーをかけるだけで強くなるなら、人は苦労はしないですからね笑

結局の所は、どこが出来ている、どこが出来ていないというチェックをひたすらしていくしかないのです。

上達を目標としているときに、精神論はまったく意味がありません。

おかしな話を真に受けないように、注意しましょう。

「こいつは超えられそうだな」と思ったら、だいたいはわりと超えられますからね。

人は自分より偉い存在を、無意識に作りだそうとする生き物です。

親や教師や上司というのも、単に役割であり、本質的にはみんな同じ人間です。

なので、偉い人なんてそもそもいるはずがないのです。

偉い存在だと思いこんでしまうと、その時点で科学的で論理的な思考ができなくなってしまいます。

絵を描く人は、良い意味でここに注意するべきです。

別に他人にマウントを取る必要はありませんが(取っている人は雑魚に見えます)、「こいつより出来るはず」と思うこと自体は向上心であり、何ら悪いことではありません。

ただ、口に出すと余計なトラブルを作るので、言うことはしないほうが懸命です。

そして、素直に「すごい」と思ったらちゃんと褒めることと、「でも超えられる」と思うことは、実はなんら矛盾はしないことなのです。