「今日は天気いいですね」
「いい天気って、どういうことですか?」
「いい天気とは、雲がなくて…」
「でも、雲がある日も晴れですよね…」
「いい天気って、どういうことですか?」などと返すべきではないという話がありました。
そのとおりで、「べきではない」というのは国語としてはそうです。
国語としては。
ただし、人は目的が共有されている前提での会話のほうが圧倒的に少ないわけです。
むしろ、目的意識が共有されない場合だからこそ、論理性による組み立てが必要と言えます。
人の会話とは、概ねの場合で「目的意識をどのように設定すべきか」の話であるし、
むしろ目的が設定されれば話す必要さえなくなります。
なので、国語ができる人だったらスムースに会話が進むのに、
国語ができない人で論理性を「こじらせた」人ほど、話が進まないで転覆座礁を繰り返してしまいます。
平たく言うと、論理性の上に目的意識や意図の設定があり、その上に国語が成立する。
「国語>目的・意図>論理性」の順番であり、 最低限、論理性が組めない相手とは会話にならないです。
また、目的・意図を前提に置けない相手とは会話になっても、マウント試合ばかりになるということです。
また、国語ができない人ほど、目的や意図の共有をしづらい傾向が顕著です。
・最低限、論理性が組めない相手との会話例
「今日は天気いいですね」
「お前は後で消す」
・ 目的・意図を前提に置けない相手との会話例
「今日は天気いいですね」
「いい天気って、どういうことですか?」
「いい天気とは、雲がなくて…」
「でも、雲がある日も晴れですよね…」
こんな極端ではなくとも、このような会話の方が日常生活では圧倒的に多いです。
しかし、こういうレベルの会話を前提にしている人とは「建設的な会話にならない」ので、
プロジェクトなどで人を選抜選考する際には、国語ができるかどうかというのが大事な基準になるのです。
なので、賢い人ほど「世の中、バカがたくさんいる」と感じやすいのには、実はこういうカラクリがあったりします。