忍びの日記

絵の思考法から世事評論まで、忍者が斬る!

本ブログ著作権について。

本ブログの閲覧者には、必ず認識をしていただきたい話があります。

それは、著作権法についての話です。

①最近、ネットで多くの人が簡単に自分の意見を発表しやすくなったせいで、著作物に関する認識が軽視されがちな風潮にあります。

私=忍者が発表しているこの無料ブログも同様に、「忍者」が発表、公表している著作物である以上、著作物としての権利が発生しています。

したがって、本ブログ内容を他人が勝手に営利活動に流用、悪用と思しき行為を発見した場合、ただちに法的措置を取らせていただくことがあります

あらかじめご理解ください。

②以下、具体的事例について記載します。

・本ブログ内容を無断で他人に共有または販売、営利活動等に利用する

・本ブログ内容の一部そのままを利用して加筆し、作品や頒布物として公表、販売、営利活動等に利用する

・本ブログ内容をそのままコピーして、作品や頒布物として公表、販売、営利活動等に利用する

この場合、本ブログ内容を無断複製、共有、譲渡、転載ということで、著作権法違反となります。

法的措置を取らせていただくことがあります。

③また、第三者が見ても同一内容と思われる本質的な内容類似性がある場合、同様に著作権法違反の可能性があります。

こちらも法的措置を取らせていただくことがあります。

以上、あらかじめご理解ください。

著作権侵害は犯罪です。

著作権、出版権、著作隣接権の侵害は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金、著作者人格権、実演家人格権の侵害などは、5年以下の懲役又は500万円以下の罰金などが定めれれています。

また、法人などが著作権等(著作者人格権を除く)を侵害した場合は、3億円以下の罰金となります。

さらに、私的使用目的であっても、無断でアップロードされていることを知っていて、かつダウンロードする著作物等が有償で提供・提示されていることを知っていた場合、そのサイトから自動公衆送信でデジタル録音・録画を行うと、2年以下の懲役若しくは200万円以下の罰金が科せられます。

なお、「懲役刑」と「罰金刑」は併科されることがあります

www.cric.or.jp

2022年11月3日 忍者ブログ管理人、著作人 「忍者」より。

なぜ、国家は増税で国民を苦しめているのか?

答え⇒高齢者医療が高すぎるから

よく陰謀論のように政府批判をする人がいます。

ネットには、国家転覆論を話す人たちも散見されます。

しかし、思い出して欲しいのは、この国の平均年齢は50歳ということです。

つまり、国民の大半は高齢者であるため、政治も高齢者優先にならざるを得ないし、そのためには若い人たちから毟るしかないのです。

特に高齢者は、死ぬ直前の終末医療で物凄く金がかかります。

この医療社会で儲かるのは医療関係者や病院、製薬会社などです。

 

子育て支援に金を回すべきなのか?

さて、子育てを推奨するべく、政府が奨励金を出して子育て世代を増やそうというのは、一見正しいように見えます。

しかし、現行の民主制度では高齢者の票数が多いため、これは出来ません。

なぜなら、子どものための養育費には予算がかかり、高齢者支援予算を削らざるを得ないからです。

「高齢者は集団自決せよ」が炎上したのは記憶に新しいところですが、まさか高齢者にそういうことをしてもらうわけにもいきません。

なので、これを解決するには、子育て支援を増やそうという方法は難しいということがわかります。

かといって、独裁でやろうとすれば、それは国家崩壊に突き進むのも分かる通りです。

なので、現行の民主制度であれば、ベーシックインカム金利で富裕層を利するものではないほうの)を導入することでしか、少子化を解決するのは不可能です。

この国では何かしようとするたびに、高齢者予算が標的にされますから、そうではないという建て付けにしなくてはなりません。

ベーシックインカム以外は解決策がないのですから、さっさとやればいいでしょう。

 

線が綺麗だと絵が綺麗なのか?

線が綺麗の一般的な意味は…

絵について、「線が綺麗かどうか」という話がよく出ます。

当然ですが、まず線そのものが綺麗というだけでは、いい絵にはなり得ません。

形が取れていない絵の場合なら、線が綺麗かどうかよりも、優先すべき事項がクリアできていないわけです。

なので、この場合は線が綺麗=絵が綺麗は成り立ちません。

しかし、私がよく言う「線が綺麗かどうか」は意味が異なります。

 

私が言う線が綺麗とは…

私が言う線が綺麗とは、形やその他の比率などすべて網羅的に把握したうえで、最適な場所に最善手として線が表現されているか、しかも太さや強さ含めてという話です。

なので、人によって「線が綺麗」という言葉の意味が違います。

あらかじめ国語の認識をあわせておかないと、齟齬が出やすい話ですので、この辺の話は慎重に気をつけましょう。

国語ができない人ほど、他人との距離感や言葉の使い方がおかしい。

国語ができない人ほど、他人との距離感や言葉の使い方がおかしい。

これは国語ができないからそうなるのだが、それが故にいかんともしがたい。

たとえば、直近で自分が何を発言してどう振る舞ったのか。

冷静に振り返る機会がないと、人として成長出来ない。

また、その作業が怖いという人もいる。

反省したり謝罪したら死ぬ病にかかっているやつも、最近はやたらに増えている。

 

一つのことを論って、騒ぎ立てる人

SNSには、一つのことを論い、まるで鬼の首を獲ったかのように騒ぎ立てる人がいる。そもそも、現実でこういうことをしないはずだ。

では、現実で出来ていることをネットでなぜ出来ないのか。

こういうやつほど、実際にリアルで遭うと、人前では驚くほど大人しい。

他人に甘えを期待する人たち。

「失敗をしまくろう」「新しいものにチャンス」の裏に隠された「甘え」

SNSでは距離感が近いがゆえに、他人に甘えを期待する人が増えています。

期待するまでならともかく、そのノリを強要しようとしていたり、レッテル貼りに発展させるバカがいます。

こういうのは当然裁かれなければなりませんが、この甘えを使うために逆張りをしたり、都合の良いフレーズを使う連中がいます。

例えば、「失敗しまくろう」とか「新しいものにチャンス」とかです。

俗に、甘言と呼ばれるものですが、この甘言を使う人には注意したほうが良いです。

そもそも、「失敗」とは「失敗を反省して次の糧にするから意味がある」とことで、「失敗しまくったほうがいい」というわけではありません。

また、「新しいものにチャンス」というのは、成功したものがチャンスだったという事後評価であり、基本的にほとんどの新しいものにはチャンスなんて無く忘れ去られて終わっていくだけなのです。

なので、ロケットなど特殊分野以外はなるだけ失敗はしない方がいいし、見たことがない新しいものをボロカスに言うのは基本的には正しいことなのです。

それだけ、失敗例やダメな例が無数にあるからです。

それでも、成功したものだけが、事後的に「当時の評価は間違っていた」となるのですが、そもそもそうでなければ、その評価は「正しかった」となるだけなのです。

この背景を知らずに、ただ標語のように連呼するのはアホと言わざるを得ませんし、そういう人には近寄らないようにしたほうが良いでしょう。

「格下なのにイキる」ブームの末路。

「格下なのにイキる」地獄

ネットでは、世間で格下であるがゆえに、それをあえて利用した地獄が発生しています。

ここで言う地獄とは、自分が格下であることをわきまえず、開き直って批判する連中のことを言います。

例えば、代表的なものとして、以下のようなものがあります。

 

  • ネット教育者が学校関係者をバカにする地獄
  • 筋トレ初心者が筋トレ初心者にイキる地獄
  • 格闘家にド素人の俺でも勝てるとイキる地獄
  • 仮想通貨業者が金融機関をバカにする地獄
  • ユーチューバーがお笑い芸人を馬鹿にする地獄
  • 同人作家が商業作家のように振る舞う地獄
  • 低学歴が高学歴に偉そうにする地獄
  • 匿名掲示板出身者が専門家に説教する地獄…(あくまでほんの一例)

 

どんだけコンプをこじらせとるんですかね…。

当たり前ですが、格下は格下ですよ?

こんなのが許されて放置されているのは日本だけであり、海外なら絶対に許されません。

また、普通はリアルで人の眼の前でこんなことをやったら、ブン殴られるのですが、「ネットだったら出来る」ということでやってしまうバカが後を絶えません。

また、喧嘩の経験がない人が増えていることもあって、ますます「言いたい放題で咎められない」という状況が、こうした「デマ」に拍車をかけてしまっています。

流石に自分が関係ない分野でも、年がら年中こんな諍いを見せられれば、流石に不愉快極まりないわけです。

例外として、格下の上位層なら、格上の最下層とで勝負論があるので別ですが(それでも見苦しい)、基本的に勝負論もないようなレベルの喧嘩したら負けるようなザコが、イキがるべきではありません。

 

叩けるものを叩いても被害は自分が被るだけ

すでに有名だったり実績があるものをサンドバッグにして叩いているのは、はっきりいって頭が悪いとしか言いようがありません。

いい歳こいて厨二病かよと言いたくなりますが、そもそも学校教育を叩いて誰にメリットがあるのでしょうか。

学校教育を叩けば、結局のところ現場の人に矛先がいき、評判が下がるから給与も低いままで疲弊して、優秀な人はやめていきます。

これ、日本政府でも全く同じことが起きていて、官僚も公務員も政治家のレベルもどんどん下がっています。

そして、日本人で高所得層は国外脱出とかしていますが、結局のところ当然のように海外ではいじめられているわけです。

海外は既得権やヒエラルキーには徹底して厳しいです。

格下でちょっとでもイキっていようものなら、実際に殴られて病院送りになります。

世界ではそれが普通なのですが、こういう現実が分かっていないのは、ネット民の民度の低さ、あるいは一部連中の知能の低さが原因です。

知能が低い人に発言権を渡すべきではないなと感じる昨今ですが、いかがでしょうか。

つまらない人とは。

常識かを気にする人ほど常識に縛られている。

常識かどうか気にする人ほど、実際に常識に縛られています。

例えば、他人の言動を常識的かで判断する人です。

「あいつは常識外れだ」はよく聞きますが、「あいつの言動は常識的でつまらない」も常識をよく気にしている人です。

もちろん、常識の範疇というのはあって、社会で守らねばならない最低限度の常識というのはあります。

しかし、大人なら、どういう場面でどうすべきかくらいは分かっているはずです。

 

つまらない人の正体

それなのに、やたらに常識的かを気にする人はつまらない人ですが、「同じように非常識でないとつまらない」みたいに主張する人はもっとダサいという話です。

例えば、「俺にとって常識なんて関係ない!」とか言ってるやつに限って、車や時計や靴のブランドをやたらに気にしていたり、美容脱毛整形とか通っていたりとかします。

よほど有名人なら別ですが、たかがネットでちょっと名を知られているのかな…程度の人で、そんなのを気にしているのなら明らかな自意識過剰です。

だいたい、他人はそんなものをいちいち気にしたりしていません。

そういうつまらない人に限って、さらに他人のファッションとかにケチを付けたがりますから、もう終わっているわけです。

着るものなんて、本人の好きにすればいいですからね。

要するに、こういうところに「つまらなさ」が現れているというわけです。

みなさんも「つまらない人間」にだけは、ならないようにしましょう。

メンタルは国語力である理由。

メンタルは国語力である理由

SNSには、メンタルがおかしい人がいます。

彼らはメンタル不調が、どこか別の所に原因があるといつも探しているのです。

しかし、彼らの話をよく聞いてみると、理屈がおかしい場合がほとんどです。

例えば、「相反する概念を対立構造にしている場合」「無能に悪意を見出している場合」など、とにかく認知が歪んでいるという場合です。

世の中では、よく「常識に反抗する」という思い込みから「迷惑系ユーチューバー」になったり、「無能のせいで自分が被害を受けた」と思い込みから「大して悪さしていない人をレッテル貼りして公然と糾弾する」みたいなことがあります。

こういう様子だと、いくら間違いを正してもこうした不調は出続けるはずです。

それもそのはずで、その人の思考のOSとなるプログラムが根本に間違えているからです。

 

バカだからメンタルが悪くなる

人間の思考は、スマホやパソコンと同じで記述されている式が間違っていたり、式同士の論理関係が誤っていると、おかしくなります。

例えば、「騙されるやつが悪いんだ」という思考だと、「じゃあ俺が騙して金を毟っても謝る必要も、逮捕される筋合いもないんだ」というふうに合理化が始まります。

なので、メンタルが悪い人が「間違った自己肯定」に走るあまり、酒やドラッグ、筋トレなど身体にアプローチする方法を取りがちですが(筋トレは健康になるので良いのですが、メンタルが本質的には改善しません)、本質としてリストカットと同じことであり、一時的にスッキリするかも知れませんが、結局のところ同じ間違いを繰り返すことになります。

自分の頭の中身を覗き込んで、どこがプログラムのエラーなのかに気付かないと、プログラム修正ができないのです。

例えば、先程の例なら、「『騙されるやつが悪いんだ』という思考が間違いだった」と修正できれば、ひとつ問題が解決します。

人間はこうしてちょっとずつ成長していくのですが、そのためには、思考のプログラム技術=自分自身に国語力がないと不可能です。

そして、これらは勉強、芸事やスポーツの上達でも、まったく同じ原理です。

 

上達の原理も国語力

勉強でもテストがありますが、テストで出来なかったところを潰していく作業をしないと、次のテストで成績が上げられません。

スポーツでも、自分の動作を録画したり、先輩に見てもらい、「いまの動き、ここは良くないな」と観察し、修正をかける訓練をします。

ピアノなどの楽器の演奏でも、つっかかった部分や流暢に弾けなかった部分は何度でも振り返って反復練習します。

このように、「直すべきポイント」をゲットすることから始まります。

この直すべきポイントに気付いて、言葉にしてセーブしておく。

このように、「自分の先行している考えや取り組みが間違えだった」と認め、受け入れることから上達が始まります。

これは国語力であり、対人コミュニケーションでも同じ話です。

ここに気づかないと失敗をしても他人に甘えるだけになってしまいますので、くれぐれも注意してください。