教育と宗教をごちゃまぜにして捉えている人が多いのですが、二つは明確に違います。
教育をやっていると名乗る人が、宗教をやっているという例は多いです。
目的のない教育は教育ではありません。
たとえば、人生について語り始めることを教育と勘違いしている人がよくいますが、間違いです。
人は生きる上でこう考えた方が良いなどと指南するのは宗教の仕事であり、教育の領域ではありません。
教育というのは、あくまでも目的とその手段という話で完結しなければなりません。
定義上、それを超えるものは宗教です。
たとえば、受験教育なら「志望校に合格する」という確固とした目的があります。
例の怪しい学校教育でさえ、「社会で日本国民として生きるための基礎的な素養や能力を身に付ける」という確固たる目的があります。
※以下、文科省より抜粋
一 、幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 、個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
逆に言えば、目的のない教育は教育と呼びません。
そもそも、教育サービスを提供する側が、何を目的にしているのか分からないほどおかしなものはありません。
延々と人生説法を繰り返すことになります。
そして、仮にそこから成果が出たとしても、それを成果とは呼べないです。
なぜなら、目的の設定がない宗教から出た成果は、科学的な再現性が一切ありません。
つまり、なんとなくフィーリングがあった人が、たまたま集まって、たまたまそうなったというだけのことであり、それをこそ宗教と呼ぶのです。
このように、教育でないものを教育と呼ぶことはできません。
もしそう呼べば、それは詐欺にほかならないです。
ただ、この境目を理解している人が良い歳した大人でもほとんどいないです。
これはゆゆしき問題ですので、よく知っておいたほうが良いです。
さらに、忌むべきことに、最近ではSNSでこの手の「教育と称した宗教勧誘」がやたら増えています。
私も教育業者でしたので、憤慨せざるをえず、同時に許し難きことであります。
そもそも、私は宗教が大嫌いなのです!!!
宗教は時間の無駄であり人生の浪費です。
同種の効能を得たいとするなら、哲学を徹底してやるべきです。
現代では、論理を構築して他人や世間と凌ぎあえるだけの能力をまず身につけなければなりません。
そうした現実的な視点で学ぶ哲学のほうが、人生では数万倍も役立ちます。
一方で、宗教サービスをやりたい人がいるのなら、それは宗教法人として事業をやるべきなのです。
「相手の気持ちが読み取れないお前が悪い」なんて、甘っちょろい泣き言が通るのは日本くらいです。
(教育業で、開口一番そんなことを言ってきた先輩もいましたから、私は腰を抜かしました!)
日本にはこの手の「宗教かぶれのヤカラ」が罷り通っておりますが、こんなやつらは理不尽でもなんでもなく、勝手に自滅的な論理破綻しているというだけなのです。
※もっとも、そのヘンチクリンがまかり通るのが宗教的閉鎖空間なので厄介です。地下鉄サリン事件を起こしたのは宗教組織でした。
要するに、統一教会問題と構造がまったく同じです。
ぜひ減らしていくべきでしょう。