SNSは多様性と言いつつ価値観の単一化をしているだけ
多様性と言いつつ、価値の相対化をして比較に勤しむ人ばかりです。
たとえば、「Aを見下げて蔑むことで、Bが偉い」という論法を使う人が目に付くようになりました。
ところが、Aをいくら蔑んで主張したところで、周りの人がBを認めるようになるわけではありません。
その主張そのものにどんなに説得力があったとして、そのように言われれば、人は感情的に納得するわけがないものです。
そして、これは多様性の逆で、価値観を潰す言動でもあります。
つまり、社会の敵なのです。
なので、そう主張したそいつこそが、真っ先に社会で見下され蔑まれる対象になります。
「どうぞ私をコケにしてください」と自己申告しているようなものです。
あるものを論い腐して言ったところで、そいつの価値が上がるわけではなく、むしろ下がる。
この子どもレベルの真実にすら気付けない連中が、ネットにはウジャウジャ湧いていてキモい限りです。
「SNSをやらないほうが良い」と、私が最近常に主張しているのはそういう理由です。
このマインドの人が大半であり、私はこういう人たちを含め、態度のなってない連中を見かけ次第、積極的にアカウントごとブロックしています。
真の多様性とは
真の多様性とは、いろんな背景を抱えた人がいることを理解したうえで、そこにちゃんと価値を見出せるように一人ひとりが成長することです。
つまり、一番最初に「認める」という重要な作業が入ります。
しかし、いまのネットやSNSを見る限り、これが出来ない人ばかりです。
ネットSNSの連中が仲間内でつるんでいるのは、相手を認めているのではなく、相手から認められないことがとても怖い、だから内心で常にビクビク怯えているからです。
そのため、いちいち必要もないのに、執拗に意味のないことを声高に叫んで目立とうとし、余計耳障りで気に障り見苦しい言動を取り続けるわけです。
「認める」というのは、その逆です。
「自分がまったく知らない価値観でも、それはそれとして受け入れる」ということです。
「知らない⇒嫌い⇒腐す⇒排除する」を一直線にやる人ばかりですが、これは心が非常に弱い人です。
なぜなら、
- 「知らない⇒嫌い」 知らないなら嫌いというなら、いまから知れば良いじゃないか
- 「嫌い⇒腐す」 嫌いだからといって、闇雲に腐す必要はないじゃないか
- 「腐す⇒排除する」 不快だからといって、叩いたり排除する必要はないじゃないか
こういうように、各ステップで内省が出来る人が強い人です。
これが出来る人が増えない限り、SNSのクソ寒い学校部活ノリの茶番劇が延々と続いて行くだけでしょう。
社会に相手にされないと感じた人が、ネットで報復行為として、より社会に相手にされていなさそうな人を、ネットSNSで見つけて叩いていじめる(あるいは敵を見つけてインチキ仲間として群れを囲う)という構図ばかりが、ネットSNSで増殖していくだけです。(掲示板やXになどに特有の構図)
いまネットSNSはこの構図ばかりですから、ネットSNSをやる時間を極力減らしたほうが良いです。
もし身近にネットSNSに執着している人がいたら、そういう価値観の温床だということを伝えてあげましょう。
SNSの投稿数=不幸度数
例えば、SNSの投稿数=そいつの不幸度数とでも解釈してみて、察してあげてください。
考えても見てください。
ネットでムキになって逐一屁理屈のような反論したり、こちらが主張するたびに、自分が否定されたような感覚に陥り、ムキになってさらに自論を展開してくるようなやつと、あなたは付き合いたいと思いますか?
いいえですよね。
そして、だからといって、そいつに1ミリたりとも付き合う必要はありません。
放っておいても、勝手に自滅するでしょう。
私は性格上、気に入らないことがあれば徹底抗戦しますが、喧嘩慣れしていないみなさんがそうしても仕方ないということです。
性格が良い私は不幸な人を見ると、(職業病でもあるが)つい助けたくなってしまう性分で、それで損したことは本当にたくさんあります。
しかしながら、その人の問題はしょせんその人のものです。
そういうことを、みなさんがわざわざする必要がありませんし、しても仕方がないということです。