忍びの日記

絵の思考法から世事評論まで、忍者が斬る!

まず事実、次に解釈。

事実を言わずに解釈を述べる人たち

「私は国語が苦手」とハッキリ言えばいいのに、「国語の試験は問題が悪い」「違う意図を読み取る能力がある」と言い張ってしまう人。
「俺は古文漢文が出来ない」とハッキリ言えばいいのに、「古文漢文はやっても意味はない」「古文漢文よりIT技術」と言い張ってしまう人。
周りからどう見えるか。

「イヤミな言い方」「否定から入る」「上から目線」に見えてしまうわけです。

つまり、意図せずとも結果として「嫌な印象」になるため、信用を失うことになります。

 

「国語力が無い」とは

「国語力が無い」というのは、適切な表現をきちんと考えられないこと(そのための語彙や文法が不足していること)です。
表現するとき、事実に感情が混ざってしまい、まったく別の結論や解釈を産んでしまうのです。

事実と感情を混ぜず切り分けること。
事実は事実、感情は感情として書くこと。

社会では、最低限これが出来なければなりませんが、出来ていない人がとてもたくさんいます。

まして、個人の人生観を押し付けるようなことは論外です。

 

生成AIの例

たとえば、生成AIの件でも、「著作権違反としても、みんなが訴えられるわけではない」「スピード違反取り締まりと同じ」「文化振興の観点から規制するのは良くない」というのは、解釈です。

一方で、「海外諸国で訴訟が問題になっており、AI企業は敗訴している」「世界的に深刻な著作権侵害と問題視されはじめている」は、事実です。
解釈を事実のように語るのは間違いです。

先に事実、次に解釈です。

つまり、もし生成AIを肯定したいなら、「元データ著作物の許可を得ていないから訴訟になっているわけで、著作権者にしっかりと許可を取るべきである」という主張になるはずです。