忍びの日記

絵の思考法から世事評論まで、忍者が斬る!

殺人の善悪境界

殺人の善悪境界

殺人は悪いことです。

これは当然です。

しかし、一方で、その人が生きていることにより社会に悪いことが置き続けてしまう場合、そのしきい値を設定しなければ永久にそのまま悪化し続けます。

殺人が悪さの度数を100とする場合、例えば左系過激派の思想扇動の悪さ(テロ煽動や女性運動など)は、場合により100を超えている場合が散見されます。

つまり、政治家、有名人や資本家、金持ちなど、場合によっては、市民が自らの手で殺すべきかもしれません。

今後はそうしないと社会が成立しません。

悪影響が大きい存在は、今後は躊躇せずすぐにこの世から消すべきなのでしょう…。

悪さについても、場合によっては100程度じゃなく1000とか10000のやつがいます。

こういう連中は、たいへん残念ですが、その場で殺すことが社会正義になるのではないかと、最近よく考えてしまいます。(もちろんダメなことは当然ですが、一方でそう考えざるを得ない場面が最近増えています)

そのくらいのことをしているのではないかという、反省や自覚が1ミリもない人が随分と多いです。

 

殺人を肯定できないが…

もちろん、殺人を煽ったり推奨したりしているわけではありません

しかし、歴史とは殺しにより、時代そのものが良い方向に動くものです。

これは、どんな啓蒙や思想よりも社会によく効きます。

まさに、歴史では「殺しこそが啓蒙」と言っても過言ではありません。

世の中、言っても分からんやつはたくさんいます。

そして、バカは暴力でしつけをするしかありません。

よく言われる「バカだから暴力を振るう」ということではなく、「どうしても言って聞かないバカをしつけるために、暴力の行使が必要な場面がある」ということです。

残念ながら、言葉で言ってもわからない人は世の中にはたくさんいます。

そして、いつの世でも生贄が必要であり、それはやはり人の死によってでなければ達成されません。

これは残念ですが、そのような思想が今後は社会に出てきても、何らおかしくないという話です。

そして、このままだと社会は近いうちにそうなってしまい、二度と戻らなくなってしまいます。

 

法では正義が決まらない

法は統治の観点による善悪(都合不都合)だけであり、社会的善悪は決まりませんから、社会に悪影響を垂れ流し続ける人たちは自分たちで葬ること已む無しというわけです。

国家権力が統治機能を果たせていない場合、残された手段は自力救済しかありません

また、メディアの偏向報道も放置が酷いまま改善されません。

たとえば、よくソーシャルエネミーになる生活保護や無職は、消費として経済に参加しているのでむしろプラスです。

皆さんの多くの評価判断基準が狂っているのも悪いのですが、生かしておいても永久に悪さをし続けるやつについては、すぐその場で殺すのがベストと思います。

残念ですが、対話不能な相手には暴力で屈服させるしかありません

 

現代はまさに殺人肯定論(=慈悲殺の公認)の葛藤であり、瀬戸際である

少なくとも、そう思うしかないくらいの状況まで、日本社会はすでに追い込まれていると考えます。

因果の道理が分からず、正邪・善悪の判断に迷い、目先の利害に従って行動してしまう連中が跋扈すると、畜生のはびこる地獄になってしまいます。