人間社会の永遠の難題とも言える、「個人と集団の論理は真逆」というテーマに迫ります。
①まず、ここで言う「個人の論理」とは、「個人が得をする行動を取るための論理」のこととします。
そうすると…、
・圧倒的な能力や権力、支配力などを得る
・腹が立ったら人を脅したり殺す
・周囲の人の金品を奪って一人占めする
・法や秩序を裏切り利得を得る
書いたとおり、だいたい法律で禁止されているようなことです。
しかし、「個人の論理」としては非常に強力なものです。
強力すぎるからこそ、法律で禁止されているわけですが、「悪いことをしてもバレなければ良い」と考える個人は、優位に立てるチャンスが増えやすいです。
しかし、こういった人が増えるほど、集団全体としては損が確定します。
村の米を独り占めする構成員が出てきた場合、共同体として存続することはもはや不可能になります。
そして、独り占めしたやつとしては、村人を見捨てるか皆殺しをして、とっとと別の場所に移動するのが最善策です。
つまり、残念ながら、「個人が得をする集団」というのはこの世には一切存在しないのです。
②ということで、共同体の存続のためには、どうしても「集団の論理」が必要になります。
市町村長、国家なども共同体と言っていいでしょう。
特に、優秀ではない個人、弱者は共同体の支援が生存のために絶対に不可欠です。
すると、個人として正しいことでも、集団ではたいていの場合において「間違い」になります。
たとえば、学校教育など集団教育がよく批判されるのも、立場として「集団の論理」しか世間に言えないからです。
※共産主義のように、集団の論理を構成員に押し付けて、自分たち上部構成員だけが得をするという方法もあります。
個人として得をしたい場合、能力を上げた上で裏切りと反逆、略奪に殺戮…。
こういう反則カードがベストの策になり、それらが取れない場合は、なるべくこれらに近いカードを切り続けることで闘いを優位に出来ます。
それを適宜、規制するのが集団の役割なのです。
しかし、逆に規制や制限をやり過ぎれば、個人の活力や競争力が大きく低下してしまいます。
個人としての能力がまったく上がらず、集団の収益もそれに比して大きく低下していきます。
こうなると、他国に攻め込まれてジエンドです。
※今の日本みたいですね
つまり、集団でやると正しいことも、個人としてやると間違いになるのです。
ということで、人間社会はこのバランスで成り立っているという話です。
③さて、それでは、もしあなたが個人として上手くやりたい場合、競争することを避けていてはいけません。
競争することを避けていると、一向に能力が上がらないからです。
競争する場合ですが、格下に喧嘩を売るのではなく、常に格上に喧嘩を売ったほうが良いです。
というのも、ほとんどの人は、少し勝てそうな格下に喧嘩を売ることを習慣にしています。
これだと、せっかく機会を作ったのに、自分自身への経験値はほとんど得られないのです。
要するに、いじめや誹謗中傷などの格下への威力行為は、勝てそうな格下を制御するだけの「集団の論理」であり、あなた自身が得をする「個人の論理」ではないのです。
※ここ重要。
なので、スポーツなどでの「最低限のルールを守った上で上を目指す」という思考こそが、実は「最も社会最適化された個人の論理」と言えるのです。
「ルールを守った上で」=「集団の論理は最低限の尊重の上で」
「上を目指す」=「上に勝ち、自らの価値を上げる」
ということなので、「ルールを守ってフェアに闘おう」というのが、一番個人も集団も得をするよねという話でした。
もちろん、ルール自体がアンフェアな場合には抗議するべきですよ。
ちょっと難しい話でしたか?
難しいと思ったら、何度か読んでみてください。