忍びの日記

絵の思考法から世事評論まで、忍者が斬る!

真実と現実は分けて語るべき。

真実と現実は分けたほうが良いです。

たとえば、受験の話をしてみます。

受験はよく世で批判対象になります。

多くの人が一度は受験を経験して人生が大なり小なり影響を受けたからです。

なので、受験に対して、個人の思いは様々にあると思います。

ただ、社会に出たことのある多くの人が受験は最も、ないしはかなりフェアな競争であるという話に疑いの余地はないと思います。

これは、世の中の人たちにとっての紛れもない「現実」といえます。

もちろん、受験だけで人の能力を測りきれないというのも一方で「真実」です。

ただ、受験のかわりに他の手段を競争手段にするとしたら、どの代替手段にするにせよ、受験よりはフェアでなくなるのは想像に難くないです。

さらに、受験を一切なくして他の手段で人を選別するとしたら、それこそ貴族制のような世襲社会が色濃くなるのは目に見えるでしょう。

残念だけど、これも「現実」になります。

 

美辞麗句を言いたい気持ちはわかりますが、実際には人は言い訳をふんだんにくっつけながらも、どこかで他人に明確な線引をするものです。

そもそも、社会において人を「公平に選別する」と言うのは、人に好みが存在する以上そもそも不可能だからです。

ただ、それを好みでいいじゃないかと開き直ってしまえば、極端な世の中にならざるを得ません。

「平家ならざるもの人ならず」「逆らったら●す」といった、鎌倉時代みたいな世の中にあっという間になってします。「そうなったほうが俺は有利だから良い」という極少数の人もいますが、それは除外します。

その好みをなるべく廃してフラットに選別しようというのが、受験の偉大でナイスな点です。

この偉大さを知っているからこそ、受験は長い歴史を経て批判を受けても未だに世に残っています。

 

仮に、受験を排除しようとして、公教育を低額、無償などでいくらフェアにしようとも、必ずそれを利用する側の能力差で問題が出てきます。

大型図書館を街中に配置しても、いくら動画資本が発展しても、ほとんどの人は勤勉でもなければ、読み解く能力も努力習慣もありません。

そもそも、現実に毎日図書館通って本読んでいる人なんて、世の中にいったいどれほどいるのでしょうか。

つまり、みんなに機会をというかたちで「良かれ」とやったのにもかかわらず(これ自体は当然良いことです)、やはり問題は広がるばかりです。

なので、受験の代わりの手段に「なろうはずがない」という結論になります。

 

受験には様々な問題が含まれているというのはおそらく「真実」です。

ただ、他により良い選別方法がなかなか無いというのも「現実」です。

受験以外の手段にしたら、今より何倍も世襲や贔屓が横行してしまい、世の中の発展性や柔軟性がさらに失われてしまうという「現実」があるよね、という話でした。