ルールは弱者のためにある
ルールは弱者のためにあります。
ルールはフェアに強さを競うという意味で設定されますが、同時に弱者を必要以上に追い込まないという狙いもあります。
ルールが守られない場合、なんでもありになりますから、腕っぷしの強いやつや金が無限にあるやつだけが勝ちます。
ルールがなければただの喧嘩です。
たとえば、国際社会でさえ、戦争にもルールを規定します。
アメリカは日本に原爆投下をしたせいで国際法違反になり、以降は国際的に糾弾され続ける立場に追い込まれました。
そのせいで、戦後、日本は経済的・文化的にとても豊かになりました。
ディベートと口喧嘩
ディベートにはルールがありますが、口喧嘩にはルールがありません。
匿名掲示板のようなルールのない口喧嘩は、ルールがないがゆえに、最後には人格攻撃と揚げ足取りになり、最終的には相手の居場所を突き止めて、そいつの生命を奪いにいくという話にしかなりません。
からかわれたからナイフで殺そうとしたという話でしょう
西洋社会では、そうした歴史を嫌というほど繰り返してきたので、ルールのある議論=ディベートという方法を発明しました。
人格攻撃と揚げ足取りは禁止、なるべく感情を入れず、意見の立場を先に決めて討論をするというのがディベートです。
「勝ち組・負け組」という言葉のおかしさ
社会に法律がありますが、勝ち負けに関するルールがあるわけではありません。
言葉のイメージだけが踊っていて、定義を考えない人が好みがちです。
おそらく相対評価的な価値観のことでしょうが、そもそも評価軸がこの世に存在しません
「勝ち・負け」はルール、フェアな判定で、積み上げたものの競い合いで決まる
積み上げてきたもので競い合うからこそ、対戦した両者の優劣を決めることができます。
逆に言えば、積み上げてもいないものでぶつかりあったとしても、それは競い合いではなく、優劣も生まれません。
何について競うのか、それをどれだけ積み上げてきたのか、ルールがあって、それを判定する第三者がいる。
そうでなければ、勝負とは言いません。
たとえば、ネットSNSでは「元〇〇に素人が勝ちました」みたいな企画が流行っていますが、そもそも元〇〇の人がブランクがあるのに、勝ち負けとか意味がないわけです。
勝負がつくことそのものが、世の中で滅多にあるものではないのです。
勝負として受験やスポーツ…がいかに希少性があるか分かると思います。
だからこそ、人間社会でとても価値がある行為であり、意味があるイベントであると言えるのです。