Fラン大学(ボーダーフリー大学)をなくそうという世間の声が大きくなっていますが、実際には推薦入試と一般入試の格差のほうが深刻です。
理由
推薦入試の問題点
推薦入試だと偏差値40の子が、偏差値50以上の学校に入学するケースがよくあります。
偏差値50の大学ですと、偏差値55や60を狙ってその大学に収まった人ばかりでしょうから、偏差値40だと周囲に引け目や負い目を感じながら過ごすことになります。
もちろん、上手く行くケースもありますが、基本的に努力して積み上げたもので競争で勝つというよりは、たまたま学校の成績がなんとなく取れていたから行くという上がり方の人が非常に多いです。
もちろん、難易度の高いAOやスポーツ推薦は努力への評価なのでマシかも知れないですが、一般の公募推薦はとくに地力があるわけでもないのに入学しているケースばかりで、これを多様化と言って良いかは疑問です。
ボーダーフリー大学は下位50%に価値がある
一方、ボーダーフリー大学は存在価値が非常にあります。
というのも、下位50%の人はそもそも大学進学を諦めています。
昔ならそれで良かったのですが、今は社会全体が知識社会として高度化しています。
そうすると、工業高校出身のような偏差値50以下で勉強が苦手、手仕事だけは出来るという人は、どんどん不要になっています。
手仕事だけ出来ても、論理的な話が通じない、コミュニケーション能力に問題がある、などの人がいると、それだけで職場は混乱するからです。
コンプライアンスが厳しくなるほど、個々の能力に依存するようになりますから、今までは高卒で済んでいた人も義務教育をやり直さないといけないという状況に追い込まれています。
ボーダーフリー大学は、中身は中学校レベルの教育なので、はっきり言って大卒を名乗ることさえどうかとは思うのですが、幸いなことにその大学名を見れば、大体どのレベルの学力まで収めていたかはわかります。
「勉強を諦めて、仕事に就く」のは昔は喜ばれていましたが、今は「勉強から逃げた」と解釈されるようになっています。
勉強は出来て当たり前の時代
慶應の甲子園優勝はまさにその典型です。
これが何を意味するかと言うと、勉強を捨てて野球だけ頑張っていた子たちの価値が無くなってしまったわけですね。
慶應の子は坊主頭ではありませんでした
これはスポーツと勉強という話だけではなく、「〇〇と勉強」という関係全てに当てはまるくらいの大きな出来事だったと社会では認識されています。
「〇〇だけできる子」と「〇〇も勉強もできる子」のどちらが欲しいですかと問われれば、誰しもが後者を選びます。
それだけ、勉強ができないということが、深刻な意味を持つ時代に入ってしまったということです。
特に今後の社会で一番問われるのは、間違いなく国語です。
国語ができるかは非常にシビアな目で見られますので、自信がない人は小学校向けのドリルを何度も解いてトレーニングしてください。