「一人あたりの食べる量は等しい」という間違った思想
男と女では食べる量が違うし、体がデカい人と小柄な人がいるように、それに応じた形で食べる人と食べない人がいるわけです。
餃子50個は食べないと身体が持たない人もいれば、5個で充分という人もいます。
しかし、5個の人が「50個は食べ過ぎ!」と揶揄できるのが、「一人あたりの食べる量は等しい」という思想です。
「一人あたりの食べる量が等しい」「なぜなら、みんな人間だから」というのは極めて数学的な思想ですが、現実とは大きく異ります。
男女平等にも同じことが言えますが、違う存在で別々の扱いを受けるべきというのが当然です。
ビーチバレー水着の話
「性的視線」「性的な撮影」という科学的にまったく定義の出来ない話を当然のものとして、「ビーチバレーの水着をやめるべきだ」という話が起きています。
そもそも、「性的な〇〇」については、人により認知が異なります。
要するに、気にしいのナイーブな一部の過激な意見が取り沙汰され、それが日本の場合だと撮影罪という訳のわからない法律までなってしまったのですが、このようにナイーブな人の意見にあわせることで、みんなが不幸になります。
今回の件で不幸になったのは、多くのカメラマン、ビーチバレー観戦者、またビーチバレー競技参加者で水着などコスチュームに憧れた多くの女子と女性たち、さらにこれにより収益減を見込まれるビーチバレー競技企画者、運営者、競技監督…など枚挙にいとまがないわけです。
ところが、こちら側の擁護派の意見は、ちっとも報道されません。
総量で言えば、水着をやめることで、見えないかたちではるかに多くの人らが不幸になっているわけです。
世の中、つねに優先すべきは「最大多数の最大幸福」であり、思想はそのひとつの手段に過ぎません。
思想の押しつけはみんな不幸になるのです。
西洋思想も考えもの
フランス(やドイツなど大陸系西洋諸国)は、古来からこんな感じなのでしょうが、日本人の思想感覚とはおよそあわなく、「日本人は西洋文明の猿真似も大概にしたほうが良い」と私は以前から言っているとおりです。
歴史では、西洋諸国は「絶対の存在」ではありません。