透明化される女性の欲望
女性の欲望が透明化された社会
性別の問題は、片方を一方的に肯定すると、もう片方の否定につながる。
外部化の論理と言っていいが、それゆえに、性加害における非難対象が常に男性だけになり続けたり、男性差別が温存され続ける。
事実、性加害する男性は全体の1%もいないが、「性加害する99%は性別が男性」という誤った統計の持ち出し方をして一方的に男性を批判する女性が多く、それを社会問題だと言って憚る。
これが、科学的であれども合理的なものの見方出ないのは明白なのだが、女性コンテンツ無罪論(BL無罪や女性週刊誌の男性ヌードは善)という考えも、ここから出てくる。
女性コンテンツ無罪とは、男性コンテンツは全て有罪(汚い臭い気持ち悪いの3k)ということだ。
有罪コンテンツだから女性は好き勝手言ったりいじくる権利があると、彼女たちは本気でそう思い込んでいる。
だから、エロ広告やめろだの、男性向け絵柄はキモいだの平気で言って厚顔無恥だ。
そもそもなぜこのような奇天烈な論調がまかり通るのかというと、そもそも女性には性欲があるのだが、なぜか社会で彼女たちの欲望だけが透明化され続けているのである。
彼女たちは「男だけが性欲を抱くという社会観」であるから、男性向けエロに異様なまでの風紀を彼女たちは求める。
「男はセックスしたい生き物であり…」という言説が明確に誤りである理由も、これ認めると自動的に「女性の性欲は無いもの」として肯定することになるからだ。
欲望が透明な性別は無敵である理由
欲望が透明な存在ということは、裏を返せば社会では主体的な存在になり得ないことを暗に認めているということである。
分かりやすく喩えれば、透明人間ということだ。
透明人間は女湯を覗いても非難されることはないし、逆に他人に自分自身の存在が少しでも見つかれば、「透明人間が見えるお前がオカシイ」と非難が出来る。
彼女たちが日がな繰り返しているのはそういうことだ。
そもそも、女性の欲望に社会が無批判であることをやめるべきである。
「女性専用」などがまかり通っているのは、おかしいことであり明確な差別であるが、「差別ではない」と声高に叫んで利権を守る学者や文化人がまだいるのには驚きである。
アメリカなら、レディースデイは1965年にはにとっくに憲法違反であるし、当然ながら大学の女子枠だって違憲だ。
日本は彼女たちをどんどん社会から透明化させていっている。
この調子で女性にどんどん透明性を認めてしまえば、男性に物申す特権として利用して、男性への差別がますます生み出されていく。
日本人女性はグローバルでは性病を抱えた薄汚い売春婦として認知されつつある。
不同意性交罪で女性が「私は同意していない」などと男性に因縁つけて、言いがかり冤罪で逮捕・書類送検なんて、日本だけだ。
不同意性交なんて、まさに女性の性欲の透明化の論理そのものであろう。
両性向けに作られた建付けだが、男性のほうを不同意ということは司法がまず認めないだろう。
今日も今日とて、こんな頭の悪いバカなことを続けているのは日本、日本政府だけである。