本当に悪いやつは「小狡い」人である理由
本当に悪いのは「小狡い」やつ
バレなければ良いだろうと思ってウソをつくことで他人を騙して利用しようとする「小狡い」人が、現代では非常に多いです。
当然、違法性のある反社的な手法は完全アウトですが、そうでなくとも商売でもかなり際どいグレーなやり方、金を儲けるためにバカであると自分を装いつつ、ウソ八百を平気で撒き散らしてそれを突き通そうとしたりするやつと、「小狡い」のやり口には枚挙にいとまがありません。
そして、こういう連中ほど、たとえば「ユダヤ人が悪い」などと、歴史的にも世間的にも名の通った巨悪と呼ばれるジャンルの中でも有名なものをひたすらサンドバッグのように悪者呼ばわりすることで、目線をそらさせては自分の悪事がさぞ立派で正当であるように「相対化して」主張します。
そもそも「ユダヤ人が悪い」と言われたところで、それが本当に悪いのか、どのようにどのくらい悪質なのかを我々は確認しようがないわけです。
まるで、一見すれば「確認しようがないくらい悪い」とでも彼らは言いたげですが、実はそれこそが「小狡いやつ」は狙いです。
このように「小狡いやつ」の特徴は、「相対化」「確認できない話に持ち込む」というところがポイントです。
しかし、後述しますが、「小狡い」ということ自体が非常にリスクであり、特に現代のネット社会では悪手極まりないです。
※勘違いする人が出てきそうなので断っておくと、私はユダヤ人の善悪の話はしていません。本当に悪いことをしているのかも知れませんが、そう断じれるだけの証拠が出ていないため単なる噂話であり、陰謀論の領域を出ません。また、善悪の評価は、それを評する立場によって判断が変わります。ある人たちにとって都合が悪いから悪党呼ばわりするでしょうが、社会では当たり前のことで、ポジションを取って何かをするということは、敵が自然に生まれることであり、それは当然のことです。
ただ、そういう真偽のわからない情報を利用して、自分を正当化しようとする連中は、悪いと噂されているユダヤ人よりよほど卑劣だということを言いたいだけです。
小狡い小技はすぐバレる
そして、「あいつに比べれば俺はマシだろう」「こんな酷いやつがいるがそれを指摘している俺は偉い」みたいに、比較対象を引きずり出し、相対的に自分をよく見せようとするのです。
有名な例だと、「毎日、野菜を売ったり牛の世話をしたりモノを作ったりとかということと違って、頭脳・知性の高い方たち」という「Aを腐してBを上げる」ことで、今年悪名高くなってしまった川勝元知事などです。
しかし、聞いている側からすれば「確認できない喩えを出したところで、お前が狡いことに変わらんだろう」と、余計睨まれるだけなのを、まったく理解していないわけです。
要するに、話一つを取っても、彼らの話の視点は常に自分のところだけになっているわけで、「自分勝手なやつ」という事実は丸バレなのです。
そして、このように本当に悪いやつほど、普段から口を突くようにそうした論法を小技として使うことで、自分が悪いやつと見られないように必死に立ち回ります。
「ウソを100回言えば信じ込む」と民衆を侮ったチョビ髭なんかが有名ですが、もちろん、こうした小狡い手法に最初こそ騙される人が出てきても、民衆というのはバカなように見えて、実際にそこまでバカではありません。
後述しますが、民衆も100回もウソをつかれれば流石に気付きます。
逆に言えば、他人にいくら「悪いやつ」と言われても、それを素直にその場で受け容れる器がある人は、そこまで悪い人と言えないわけです。
「胡散臭い」には、かならず理由がある
こういう倫理観のないやつは、時間が経てばかならず「胡散臭い」と判断がくだされます。
というのも、先の例でも、ユダヤ人がいったい「どのように悪さをしているか」なんて、ニュースや噂話で聞きこそすれ、具体的にはほとんどが誰も知らないわけです。
逆に言えば、そうやって「何かと有名なものに人々の目線を引き付け、ウソをつこうとしていた」という魂胆がバレるわけです。
たとえウソをついていなかったとしても、すこぶる印象が悪いことには変わりありませんから、こうなってしまうと、こういう人は生涯に渡り信用や信頼を得ることは難しくなるわけです。
中には、この事実を知った途端に焦り出して、慌てて自分に人々を騙せるような箔をつけようと、肩書き集め、または有名人や権力者たちと絡んだ証拠集めに躍起になるような人もいます。
しかし、そうしたことで付けた箔を人々は簡単に忘れますし、「胡散臭い」という評判のほうは一度ついたら永久に消えることがありません。
ましてやネット社会ですので、デジタルタトゥーとして永久に残ります。
言われ続けるのがオチですし、自らそうした末路を選んだので自業自得でしょう。
「胡散臭い」という評判には、かならず理由があります。なぜなら、よほど酷いことでもしない限り、人は他人のことをわざわざ「胡散臭い」呼ばわりしないからです。