クリエイターはコミュニケーションが目的なので、「『高度なキャバクラ』に置き換えてしまえば金を取れる商売になる」と発見している人がいました。
「ネットでお喋りやチャットも、要はキャバクラと同じでしょう」と。
その通りだと思います。
要するに、「コミュニケーション欲求を解消する」=「人として健全」というのは、一種の社会通念です。
しかし、人生において、これは非常に厄介な問題なのです。
というのも、「クリエイター」=「モノを作る仕事についている人たち全般」は世の中に非常にたくさんいます。
広い意味で言えば、なにかの生産活動に従事している人は、クリエイターと言っても過言ではないです。
つまり、キャバクラ通いにハマるサラリーマンが後を絶たないのも、「満たされないコミュニケーション欲求をどうにかしなければならない」という一種の強迫観念から起きていることだったりもするのです。
さて、ここからが本題ですが、「コミュニケーション欲求」をここで再定義します。
コミュニケーション欲求というのは、食欲と同じものだと思ってください。
要するに、人は「食欲を満たす手段」が、ご飯だったりパンだったり、水だったりします。
では、「コミュニケーション欲求を満たす手段」も、どういったものでも良いのです。
逆に言えば、たくさんの手段があることが容認されない社会になってしまうと、みんなキャバクラ通いばかりになってしまいます。
最近だと、「ネットキャバクラ」と言われているとおり、「ネットでお喋り」「チャット」するのも、要はキャバクラと同じ機能です。
これにハマってしまった人は、コミュニケーション欲求を満たそうというときに、「モノを作る」という手段が取れなくなってしまうのです。
つまり、一種の「デジタル中毒」と同じ現象なのですが、人の欲求をデジタル空間に吸い取られてしまう危険があります。
今の社会では、自分に食欲を許してしまいがちな人は、無限に太ってしまいます。
アメリカでは身動き取れないくらいに太った人が多いように、そういう社会になりつつある現代で、「いかに自分自身の欲求をコントロールするか」、「腹八分目の状態でいられるか」というのは、一種のマナーのようになりつつもあります。
つまり、欲求をどういう手段で満たすのかを選べるようになった現代では、世間評価に関係なく、自分自身にふさわしい手段を「選ぶ権利」があるということです。
辛辣に言えば、「キャバクラ通いにハマったサラリーマン」は「コミュニケーション欲求を抑えきれなかった巨大デブ」と、同じことだと言えてしまうのです。
なので、クリエイターはお喋りチャットなどで、コミュニケーション欲求みたいなものを、うかつに解消してしまわないように注意したほうが良いでしょう。
誰ともしゃべらないのがキツイというのであれば仕方ないでしょうが、ある程度コミュニケーションを取らなくても大丈夫な自分を作るほうが、はるかに近道です。
禅の坊さんじゃないですが、「俗世と離れて修行に打ち込む」みたいな構えがないと、「クリエイターとして苦しむ」ということになってしまいます。
人は、いくら些細で小さなモノでも、「作る」という作業は途方もないエネルギーが必要だからなのです。
要するに、ちょっと腹が減っているほうが「人間らしい」のと同じように、ちょっと寂しいくらいが「人間としてちょうど良い」ということでもあるのです。
いつも満腹の巨大デブが「映画の主人公足り得ない」のも、人間としてあまり魅力がないからですね。