理解+共感⇒人が動く
人が動くときには、理解と共感の二軸が必要です。
二つのうちどちらかを欠くのでは、人に同意を得られません。
そして、同意を得られないなら、人が動くこともあり得ません。
たとえば、私は長年教える仕事をしていましたが、自分がいくら良い内容を教えていたとしても、生徒が聞く気にならなければ、意味がないわけです。
また、生徒が理解できないレベルの高度な内容を教えたとして、これだといくら生徒のやる気があっても、意味ないことです。
理解はできても共感できないケース
「高齢者は集団自決しろ」みたいな発言は、確かに高齢者が割合として多いから、社会の変化が硬直的になっているみたいな論理は、一定の理解はできます。
しかし、内容は人権侵害そのものなので、これには絶対に共感はできません。
日本は太平洋戦争の時に、零戦による特攻をはじめ、人間魚雷回天、竹槍部隊で戦車に突撃、31人32脚で戦車に突撃など、集団自決のような手段を用いた過去があります。
とくに、イメージを大切にしている企業にとっては、こういったネガティブなイメージを想起させる人たちと関係を持つこと自体が、マーケティングとして致命的になりますし、たとえ取引先が個人だとしても、「そういう(集団自決に肯定的な)連中と関わっている人だ」とみなされます。
これは本人が知識で分かっていても、周りに踊らされて調子に乗った場合で、学者や官僚、政治家などに多いケースです。
共感できても理解できないケース
「ブレイキングダウンのような興行を流行らせるべきではない」という発言は、確かに不良の溜まりで素行の悪さを動画で晒すのは悪影響という話に、一定の共感はできます。
しかし、そのようなコンテンツが否定される道理ならば、他すべてのコンテンツも規制されねばならなくなりますから、論理自体が意味不明であり、まったく理解ができません。
「犯罪者が出ているからコンテンツを停止するべき」という話も、それならばまず真っ先にテレビを停波にすべきです。
そもそもインターネットには、マニアックな際どいコンテンツが多数あり、それが存在意義のようなところで成り立っていますから、「世間ズレしている」「だから、けしからん」というテレビや有名人にとっての理屈をあてがうのは見当違いです。
さらに、実害が出た場合、当該団体が対処していないならともかく、警察組織などと連携して対応している以上は、否定する方がおかしいです。
これは単に本人が学歴が低かったり、知識不足から起きる場合で、スポーツ選手やアーティストやゲーマーに多いケースです。
どちらを欠いても、ただうるさいおっさんおばさんになるだけ
老害という言葉が流行って久しいですが、理解と共感はどちらを欠いても、ただうるさいおっさんおばさんになるだけです。
しかし、こういう人はネットやSNSでは昨今でも顕著です。
それでも一昔前なら、変わった人として許容されていましたが、それも許されなくなりました。
やはり、共感のベースを作るためにも、まずは相手が不愉快になる言動は慎むべきでしょう。
理解と共感は人間関係の基本
理解と共感の二軸は、実は絵を描くときでもまったく同じ話です。
理解はできるけどなんか硬い絵、逆に雰囲気はいいけど理屈が怪しい絵。
こういう絵は悪くはないものの、一方で人の心が動くことはありません。
私は小さいころにピアノを習っていましたが、音楽でも、音ゲーのように演奏の音程とタイミングを合わせられるようになって、ようやく半分くらいというところです。
演奏会に出演したこともありますが、人前で演奏するレベルにするためには、その楽曲の表情を豊かにするために、表現の観点から、さらに幾度となく練習を積みます。
こんな感じで、コミュニケーションというのは、そもそも理解もしくは共感でようやく半分くらいというところですが、一方でそもそも理解や共感に苦しむような人が世の中にはやたら多いのも、また事実です。