日本人は、権威的なものに必要以上に価値や意味を見出しすぎです。
その結果、社会が上手くいかなくなります。
「おかしいな」と思っても、「こいつには言えるけどこいつには言えないみたい」なものが社会的同意としてフワッと出来てしまう。
このような状況では、ウソが流布して国内なら良かったとしても、海外には取り残され負けていきます。
本質的には学校は本来不要だと私は考えています。
しかし、本当に救えないくらいのバカが社会には多すぎます。
だから、最低限の一律指導や規制みたいなのは必要だと思います。
でも、それは必要悪であり権威主義の助成になる規模ではならないわけです。
たとえば、某県の家庭教育支援条例の一部ですが、 「保護者や祖父母の役割とかこれが正解」みたいに定義されてて、「キモい」という感想が多々あります。
このように、日本ではなぜか一部の事例を個別に適応できると考えてしまう。
間違った思い込みがそのまま政策になってしまうんですね。
こういう間違った思い込みで政策を決めてしまうと、「誰かを救うためにみんなが不幸になる」みたいな謎の現象が起きます。
この場合は、レベルをごちゃごちゃにして一律になにか行なおうとしたのが原因でしょう。
日本人はいい加減、こういうクセはやめにした方が良いです。
バカな大人に賢い子が言うこと聞かされるのは、本当に苦痛にほかならないです。
話が通じないのを無理に合わせようとせず、レベルで分けるべきですよね。
たとえば、いじめを楽しむ子は、ものごとが理解できない知能レベルが低いことは証明されているので、低レベル扱いして「君はこうしろよ」と逐一指示してやらないといけません。
でも、こういういじめ指導をした結果、「ああ、生徒はこう扱えば良いんだ★」みたいに頭のおかしな教師は考えて、それをみんなに適用しようとします(実際にこの手の人って、一定数はいます)。
このように、明確に分けないから、ポエムとパターナリズム(バカくせして偉そうにする大人の跋扈)が止まらないわけです。
私からすれば、「え?お前ごとき、害悪だからやめろよ」が本音です。
つまり、論理的解決以外は遠回りなど余計なマイナスを産むだけなのです。
絵にも同じことが言えて、なにかと劣等感など自分の感情を大事にしすぎる人が多いです。
もちろん、どう感じるのかは動機になるので、自分の気持ちを捉えるのも大事です。
しかし、一方で感情はどこまでも現象であり、それをどうしたら解決や解消をするかを考え、それを実行するだけです。
そうでないから、いちいちポエムばかりの人になります。
「あの人は裏で100倍描いてます」みたいな。
この数値って、根拠もなければ明確な意味もないですよね。
「上手なあの人みたいに描けない」みたいな思い込みも、まったく根拠もなく意味もないですよね。
私の場合は、「この人はどのように捉えて、どう考えているんだろう」「なぜこの出力になったんだろう」というように、絵をジロジロ見て描き手の思考の分析をしはじめます。
そして、理解と分析をして、気に入ったらその技を盗めば良いわけです。
上手い人がいればいるほど、じゃあ自分もより上手くなれるよねという論理です。
ここは格闘技で培った思考でもありますが。
なので、私は他の絵描きへの劣等感は基本的にゼロなんですよね。
ただ、自分の理想に追いつかないもどかしさに対する怒りは半端ないですが…。
なので、意味のない問答ばかり繰り返す、頭の良くない人にはならないようにしましょうということです。
これって、最初の話と似ているなと思うので、二つを一気に紹介しました。